Anou

東京で働くバツイチ40代男性のひとり暮らし(たまにふたり)とかいろいろ。

【機動戦士ガンダム 水星の魔女】 第21話「今、できることを」感想と考察① プロスペラとスレッタ、とある福音

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今時点で第3期のお知らせがないので、どうやら「水星の魔女」は第2期で終わる可能性が高そうです。中途半端に劇場版で完結!とか言われて悶々と過ごすよりは、このまま怒涛のテンションで駆け抜けてくれた方が嬉しいような、うーん、寂しいような。第21話はいよいよ最終話に向けて急加速しました。クワイエット・ゼロ、お前はそんな悪そうな見た目の要塞だったんだな。補完計画的なイメージ的なアレかと思っていました。そんな怒涛の情報密度。書きたいことが多すぎるのですが、仕事が忙しく平日は生きるだけで精一杯です。最も印象的だった「プロスペラとスレッタという母娘」について、3つのセリフから整理してみたいと思います。

 

お母さん、エアリアルガンダムじゃないよね?(第7話)

第一期で最も衝撃だったシーン。エアリアルガンダムでした(みんな知ってた)。実の母親(と思っていた)の騙し打ち。普通の高校生なら家出するでしょう。いつも傍で支えてくれた姉妹のような存在だったエアリアル。しかし、エアリアルは搭乗者の命を脅かす呪いの兵器であり、母が復讐のために為に使おうとしている兵器=ガンダムでした。第21話で母の積年の恨みを知ってもなお、スレッタは母と姉(エリクト)の復讐を止めるために、自らガンダムに乗ることを決意します。プロスペラが「エアリアルの覚醒のパーツ」と見なしていた「リプリチャイルド=スレッタ」。しかしスレッタは、カートリッジとしての役割を終えたことを自認し、「今の自分にできることを考え、行動」して、自らの道を歩み始めます。瓦礫に押し潰された学友を救い、ブランケットを配り、ミオリネのトマトを皆に振る舞う。地球寮のメンバーの影に隠れていた日々が、嘘のようです。
 
 
こんなに優しい娘がなぜ、プロスペラのクローンなのか?と言う疑問が生まれます。ですが、逆に言えば「プロスペラ=エリクト・サマヤ」もまた、本来はスレッタのように優しい人であったことの裏返しなのかも知れません。OPでエリィを抱き上げる優しいエルノラが頭をよぎります。「復讐の怨念が人を変えてしまう」と言う描写は本作で多く存在しますが、その代表格というべき人物がプロスペラなのも、と思います。娘から「ガンダムじゃないよね?」と聞かれた時のプロスペラの心境はどのようなものだったのでしょうか?第7話の時点と、21話まで進んだ現在とでは、大きく見方が変わりそうです。
 
 
 
 
 

スレッタは自由に生きていいのよね

プロスペラは近い将来、「2つのこと」に気づくことになると思われます。
「パーメットを上げるための開発=戦い」を経て成長したのは、エアリアルだけではなく、スレッタも同じだった、ということが、ひとつ目。
スレッタは、友人、仲間を得ています。これはプロスペラの予測を超えた事象だったのではないでしょうか。子供は時に、親の想像を超えるものです。そうした「成長にまつわる驚きや、喜び」を得ることが「子育て」の大きな魅力のひとつ。プロスペラが「復讐に必要なパーツのケア」としてスレッタに接してきた時間は、実は「子育ての時間」であり、親としての喜びです。これがふたつ目。
恐らくプロスペラは「子育ての喜びがもたらす感動を能動的に抑制してきた、あるいは一定の距離を保ってきた」のではないかと考えています。そのため、現時点では明確に上記の2つのことに気づいていない可能性が大。第19話の「スレッタは自由に生きていいのよね」というセリフには、そんな距離感、遠慮のような感情が見て取れました。愛情が無い訳ではないが、スレッタを道具として接してきたことに対する後ろめたさのような雰囲気があったのかも知れません。
私は「親」は、子供を産んだ瞬間から「親」になるのではない、と思います。子を守り、育み、共に時間を過ごす中で「次第に親になっていく」ものなんだろうな、と。復讐の怒りの渦に居る者は、ことごとく亡くなってしまう「水星の魔女」。プロスペラもまた、その運命からは逃れられないと予想されます。しかし、復讐を思い描いて過ごした時間はスレッタによって「子育ての時間」となり、逆説的に「プロスペラが自らを母親として成長させてきた期間」でもあったのです。よって、スレッタの「成長」が、プロスペラにとっての「福音」になる可能性が高いと思われます。第18話でプロスペラはスレッタを棄てましたが、スレッタは母との「対話」を望んでいます。これは、本作における重要なテーマです。
 
母の復讐を止めるため、そして多くの人々や仲間、ミオリネを救うために。プロスペラとスレッタは最初で最後の「それぞれが独立した個人としての対話」を迎えるのでしょう。どう考えても、最終話では「報い」を受けるであろうプロスペラですが、「夫と娘を亡くした悲しみや怒り以外の豊かな感情」、あるいは「彼女が切望してやまない自由」に包まれて最後を迎えて欲しい気がします。
 
 
 
 
 

何も手に入らなくても、できることをすればいいんだって。連れて行ってください。ガンダムのところに。

一度は諦めていたスレッタですが、再びプロスペラとエリクトとの対話を望みます。その対話には「ガンダムに乗る=データストームを受ける=命の危機がある」と言う前提条件があるにも関わらず。こうしてスレッタは、多くの視聴者の予想を遥かに超えたであろう成長を見せながら、ガンダムに乗ることを決意します。
これまではエリクトの比護を受けながら、母の導く道の上で、受動的に戦ってきました。しかし、今のスレッタには「呪いのモビルスーツであるガンダムに乗り、母を止める。そしてエリクトと対話する。」という目的を持った能動性があります。道具としてガンダムを使う、戦う、という意志。それはパイロットであり、戦士としての心理。胸熱の展開です。初の女性パイロットによる主人公、学園モノと言われていたガンダムで、これほどまでに胸が震える「主人公がガンダムに乗ることを決意するシーン」が描かれるとは予想だにしませんでした。
 
「進めば2つ、逃げたら1つ」という言葉と共に「何かを手に入れることが前提」という呪いの言葉と生きてきたスレッタですが、母親から切り捨てられたことで、「何も手に入らなくても、できることをすればいいんだ」という考えを手にしました。それは地に足をつけて、一人で生きていくための考えであり、親離れでもあります。そのタイミングでガンダムに乗るというイベントを用意するあたり、歴代のガンダムの中でも本当に「ガンダム作品」であることを認識させられますね。大河内さんの脚本、構成力の高さに脱帽です。
 
 
「そのとき、君の目の前にガンダムがあったことは偶然かもしれない。これまでガンダムに乗ってきた者たちも、みなそうだった。だが、ガンダムに乗るかどうかは自分で決めたことであって、偶然ではないはずだ。違うか。」
ユニコーンガンダム episode5で、ブライト艦長がバナージに贈った言葉です。福井晴敏さんは、ガンダムの本質を言葉にすることが、天才的に上手いですね…。
 
 
 
 

まとめ

ガンダムにおける「父と息子」 は伝統的なテーマのひとつですが、本作では「母と娘」 が軸であることが改めて明示されたエピソードでした。「 プロスペラとスレッタ」 というキャラクターに絞って考えてみても、 本作が終盤を迎えつつあることが読み取れます。
そしてもう一つ、「分断と対話」が本作における重要なテーマであることもまた、強調されたエピソードでした。スペーシアンとアーシアン、アスティカシア学園で肩身の狭い地球寮メンバー、ニカとマルタン。さらに「データストーム」もまた、「人類とパーメットの分断」と言う現象の現れです。その点に対する希望は「エリクトのみが対話に成功している」と言う事実。おそらく物語終盤で、スレッタがエリクトのようにパーメットとの対話に成功する(レイヤー33に到達?)流れを迎えるのだと思います。つまりそれは、スレッタのリアル存在が消滅する、、、ということかも知れませんが。
散りばめられた伏線や記号がひとつに集約されていく快感と寂寞。 この先を早く見たいような、完結してほしくないような、 ごちゃまぜの気持ち。 鑑賞者に様々な感情を沸き起こすストーリー。つまり「 水星の魔女」は、傑作として完成しつつある、 ということなのでしょう。明日の放送も楽しみです。