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東京で働く40代男性のひとりごと。

【機動戦士ガンダム 水星の魔女】 第22話「紡がれる道」感想と考察① 前半の名シーン、心理描写を振り返る

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あぁぁ、終わってしまう。今からロスが怖い。今週も引き続き情報量が山盛りだった水星の魔女。主人公が機体を乗り換えるイベントはガンダムの伝統芸ですね、ありがとうございました。相変わらず仕事が忙しく、それでも何度も見返して試聴してしまった22話。個人的に、本作はリアルタイムで見たガンダムのベスト3に入る作品になりつつあります。たぶん2回に分けてお届けする第22話「紡がれる道」の感想と考察(できなかったらゴメンナサイ)。①では、本作の重要な演出アイテムである「扉」と「境界」を中心に綴ってみます。

©︎創通・サンライズMBS

-目次-

 

クワイエット・ゼロ vs 地球議会連合軍

より大戦力を投入したであろう地球議会連合の第二波攻撃。ですが、初戦に続いて敗北。「遠隔からのビーム兵器→ミサイル兵器に切り替え」という戦略は理に叶っていると思うのですが、直線的な戦術過ぎる印象もあります。その戦法から、地球議会連合が戦略を重視せずに、圧倒的物量で蹂躙してきた歴史が伺えるような気がします。何より、第一次クワイエット・ゼロ戦闘の教訓が生かされていない、、、?!組織として大丈夫なのか?

チート過ぎると思われたクワイエット・ゼロですが、ゴドイのセリフから「パーメット反応炉の再活性化に時間がかかる」という情報が弱点が判明。そもそも、クワイエット・ゼロを操艦している多くの人員はベネリットグループの人なのか、シンセーの人たちなのか?こんな大量のガンドノードの予算はどこからゲットしたの?とかツッコミどころが満載です。運用はぶっつけ本番だったようですし、永続的に戦闘が可能という性能でもない。とすると、完全無欠の不沈艦ではなさそうです。23話ではおそらく、ミオリネ母の設計思想に基づく、何らかのファクターがクワイエット・ゼロを崩壊へと誘う、、、という流れになるのでしょう。

 

 

 

 

エラン5号とスレッタ

再びの初デート

エラン4号と共に、夢と消えたスレッタの初デート。中の人がは違うとはいえ、終盤で実現するとは思いませんでした。目から水が止まりません、何ですかコレ。

 

「強化人士は、ガンダムを扱うための消費パーツだからね。あいつはまだマシだったと思うよ。怖くないの?全部ほっぽって逃げればいいだろ。あいつだって、、、。」

 

おそらくは4号の最期を伝えられたのでしょう。泣いているスレッタに言葉をかけるエラン5号。「まだマシ」は「スレッタと出会えて救われたから」という意味だと思われます。そして細かいですが、スレッタの隣には座らず、ベンチの背に反対側から腰掛けるのはエラン5号君の配慮なのでしょう。「隣に座るべきは、4号だから」という考えなのだと思われます、きっと。泣ける。良いシーンでした。

 

 

 

紡がれる道「エラン5号の場合」

「怖いです。でも私、やりたいことって、最初はお母さんに勧められて、ただなんとなく思ってただけで。でも今は、誰かに言われたからじゃなくて、私がやりたいって。エリクトを、お母さんを止めたいって。」

「羨ましいな。…なんでもない。行こうか。」

 

エラン5号の言う「羨ましいな」は何に対して、でしょうか?

「同じガンダムのパーツとして生きる人間でありながら、やりたいことを見つけたスレッタに対する羨望」

「助けたい、一緒に歩みたいと思える相手の存在があること=ノレアはもう居ない(ただエリクトを居るというかどうかは微妙ですが)」

理由は他にもあるのかも知れませんが、私の想像はこんなところです。もっとシンプルに言うと「生きる意味があって、羨ましいな」ということなのかも。スレッタの決意に触れ、ノレアの残したノートに描かれた景色を眺めるエラン5号は、彼なりに自らの進む道を考えているのでしょう。あんなに気持ち悪いヤツ呼ばわりされていたのに。中身はゴリゴリのいい人。心情描写が暖かい、良いシーンでした。(2回目)

 

 

 

紡がれる道「スレッタのやりたいこと」

「あ、もう一つ、ありました。やりたいこと。」

残りのエピソードにおけるスレッタの行動を決定づけることになる会話劇。彼の中身はすでに「4号」ではありませんが、スレッタにとって「自らの進む道を考える時の支えとなる重要なキャラクターはエラン・ケレスである」と言う描写は一貫しているように感じます。これまでのガンダムにおいて、「同モデルの後継となる強化人間(人士)」と言うキャラクターは、悲劇性を割り当てられることが多かったと思います。しかし本作では「救い」が盛り込まれているところに、伝統を踏襲しつつも、新しい描写を行おうとする制作サイドの意気込みが感じられる気がします。本当に良いシーンでした。(3回目)

 

 

生身の決闘〜グエルvsスレッタ

「あいつは俺の婚約者だ 今更会わせると思うか」

「私、ちゃんとお話ししたいんです、ミオリネさんと、まっすぐ」

「だったら、俺と決闘するか 負けたらミオリネのことは諦めろ、どうする?!」

「やります、決闘!します!」

水星の魔女はこれまでに、過去のガンダム作品をなぞらえたシーンを多数、盛り込んできました。オマージュというやつですね。そして22話では、主人公とライバルのフェンシングによる決闘シーンが登場。アムロとシャアがやってたアレですね。(あちらは試合でなく、ガチでしたが)古参オタクは狂気したのではないでしょうか(良い意味)。さらに、勝負を決めた瞬間のスレッタが天に剣を突き出したポーズは、ジオングに打ち勝った初代ガンダムのラストシューティングそのまま。熱い、熱すぎる。22話は何回、視聴者を泣かせにくるのでしょうか。

でも待てよ、この決闘のシーンって必要だったのか?と考えてみました。

ガンダムに搭乗して最終決戦に臨むなら、スレッタがホルダーであるべき

・スレッタが精神的にも肉体的にも「復活」を遂げたことの記号的表現

・グエル、スレッタ双方が納得できていなかった決闘のやり直し=ミオリネの過ちの訂正

・最終話を前に改めて本作が「ガンダムである」ことの表明

短い時間で唐突に挟み込まれたシーンだった印象もありますが、こうして考えてみると終盤への盛り上がりのスタートとして、必要な流れであった感じがします。それにしても、一度負けたスレッタが、ミオリネと改めて向き合えるように背中を押すグエルパイセン。倒錯した感情なのですが、やはり、君が主人公なのですよ、、、。そこも含めて良いシーンでした。(4回目)

 

 

 

 

「扉」と「境界」の重要性について

手をとりあうスレミオ

「私がここまで来れたのは、ミオリネさんと出会えたからです。これは。間違いなんかじゃありません。」

「いつか。私と一緒に、地球に行って。私は、自分のやったことに1人で向き合えるほど強くない。でも、見ないふりするわけにはいかないの。」

「扉、開けてもいいですか?」

「だめ。自分で行く。自分で開ける。」

 

自らを過信せず、非を認め、頼るべきところは人に頼る。その発想は、すでに大人の考え方です。素晴らしい成長、泣ける。ミオリネの「自分で扉を開ける」というセリフには「自分で決断、行動して、責任を持つ」という意志が見て取れます。泣ける。その後、二人が手を取り合う様子は、日本アニメーションの歴史において語り継がれるであろう名シーン間違いなしです。そうです、これが見たかったんですよ、良かったねスレミオ、、、。

 

 

 

「対話」を支えるための演出、あるいはモチーフ

再び心を通わせたスレッタとミオリネ。二人はミオリネが閉ざしていたドアを挟んで、手を取りあいました。このように、水星の魔女では、テーマである「対話」を描くシーンにおいて、「扉」と「境界」を効果的な演出に使うケースが多く見られました。ミオリネの温室が、彼女の「心の壁、空間」として描かれたことが代表的。地球寮メンバーとのコミュニケーションに問題を抱え、閉じこもってしまうスレッタを、ミオリネが連れ出そうとたシーンでは、トイレのドアが大活躍(?)しましま。第12話では、プロスペラの言葉を聞いたスレッタが「人殺しへの領域」へと進んでしまったことも。

血が飛び散っていないエリアから、血だらけのエリアへと足を踏み出すスレッタ。明るく闇堕ちする主人公、これは衝撃的でした。

他にも、プロスペラがミオリネをクワイエット・ゼロへと誘い込むシーンでは、くっきりとした明暗と共に描かれました。影のエリアにいるプロスペラと、日向にいるミオリネ。思い返せばあのシーンからミオリネがプロスペラの策略に乗ってしまうので、非常に明示的なシーンでした。おそらく23、24話ではエリクトやプロスペラとの対話において、同種の演出が盛り込まれるものと予想されます。

 

 

 

愛すべきポイントの多いキャラクター描写、モビルスーツの戦闘シーン、ガンダムとしての伝統的な表現、細かに絡み合う伏線(誰も気づかない or 後になって気づく)などなど、視聴者を楽しませてくれる要素が豊富な「水星の魔女」。「扉」や「境界」のように、重要なシーンにおいて「これでもか!」というほどの明示的な演出によって、物語が紡がれています。「わかる人だけが、わかれば良い」という独りよがりではなく、「多くの人に届けたい」という制作サイドの心意気を感じるポイントだと思います。作り込みの深さとわかりやすさ、そしてファンへの思いやりが、本作の「幅広い世代に共感を得る原動力」になっているのかも知れません。